タイトル
学校では教えてくれない長岡京が遷都した理由について徹底検証!
まえがき
みなさん、日本の歴史は好きですか?
来年には新しい天皇が誕生することが決まっています。
現代では天皇がお住いの皇居は「東京」ですよね。
明治の時代より、天皇のお住いは「東京」ですが、それ以前は「京都」でした。
京都が天皇のお住いなったのは「平安京」からのことです。
では、「平安京」になる前は?
日本の歴史を習ったことがある人ならば、「平安時代が平安京、その前は奈良時代だから平城京」と答えるかもしれません。
ですが、実は「平安京」とそれ以前にあった「平城京」の間に、あまり知られていない「長岡京」という都があったのです!
今回は、その「長岡京」について徹底検証しました。
長岡京を遷都したのは誰?長岡京を遷都した理由をどこよりも分かりやすく解説!
長岡京の場所と遷都したのは誰で遷都した理由をどこよりも分かりやすく解説していきますね。
長岡京を遷都したのは誰?
長岡京に遷都したのは桓武天皇です。
長岡京の場所はどこ?
まず、長岡京の場所を確認してみましょう。
長岡京があった場所とされているのは、現在の京都府日向市、長岡京市、京都府西京区のあたりにまたがった場所です。
桂川、宇治川、木津川の三本が合流する地点にとても近く、この三本の川が合流してやがて淀川となり、大阪湾へと繋がっています。
京都の平安京から見ると南西の位置にあたります。
また、長岡京以前にあった平城京から見ると約40㎞北北西になります。
長岡京を遷都したのは桓武天皇ですが、長岡京の後に平安京の遷都をしたのも、同じ桓武天皇です。
桓武天皇が長岡京に遷都した理由は堅実!?
では、桓武天皇はどうしてわずか10年という短い期間に遷都をしたのでしょうか?
結論から言うと、桓武天皇は「貴族にも仏教にも左右されない、天皇中心の政治」を行いたいと考え、長岡京に遷都することを決めたようです。
長岡京遷都は、歴史を更に遡って『大化の改新』とその後の『壬申の乱』に関わってきます。
『大化の改新』を行った中大兄皇子(後の天智天皇)には弟や親族を合わせると沢山の王子がいました。
飛鳥の時代より、貴族は自分の娘を天皇の妃にして、生まれた子供を天皇にすることにより、大きな力を得ていました。
同じように、中大兄皇子も自分の敵となるものを次々倒していき、やがて天皇になりました。
中大兄皇子と密接に関わっていたのは中臣鎌足で、のちに『藤原』の姓を天智天皇からもらいます。
天智天皇と大海人皇子は同じ両親から生まれた兄弟ですが、やがて敵対関係になって行きます。
天智天皇の死後、大海人皇子は壬申の乱を起こして、当時の天皇を倒します。
大海人皇子は天武天皇になり、その後は天武天皇の血筋の天皇が誕生していきました。
ところが、奈良の大仏を作るように命じた聖武天皇の頃から藤原氏の力ではなく、橘氏が力を持ち始めました。
聖武天皇の後を継いだ娘の孝謙天皇の頃は藤原氏と橘氏の対立が激しさを増し、その隙間を縫うように、道鏡という仏教僧が孝謙天皇(2回目に天皇になったときには称徳天皇と名乗った)から信頼を寄せられ権力を得るようになりました。
子供のいなかった称徳天皇の死後は、久しぶりに天智天皇の血筋の天皇が生まれることになりました。
長岡京遷都(784年)〜平安京遷都(794年)までの間は何時代か調べてみた
長岡京が何時代に区分されるのか調べてみると、「奈良時代」に区分されています。
長岡京へと遷都した桓武天皇ですが、自分の信頼していた藤原種継が暗殺によってなくなってしまいます。
藤原種継の暗殺の首謀者は早良親王とみられ捕られましたが、早良親王は無実を訴え、やがて恨みを残しながら死んでしまいました。
そしてせっかく遷都した長岡京も、川が氾濫したり、日照りによる飢饉、疫病が大流行します。
桓武天皇は早良親王の怨霊と考え、長岡京から平安京へと再び遷都をしたのです。
長岡京が存在したのはわずかに10年、しかも早々に遷都を完了したかったので、長岡京で使われていた門や建物は平安京へと移築する形になりました。
奈良時代、天皇が平城京以外に都を作らせることもありました。
ですから、長岡京も平城京で政治を行っていた時の副都と考えられているので、奈良時代に区分されています。
平城京が長岡京や平安京に遷都していなかったら歴史はどうなっていたか予測してみた
長岡京や平安京は、平城京の弱点を克服するために作られた都です。
ですから、もしも、長岡京や平安京への遷都がなければ、今の日本の国も途中でなくなっていたかもしれません。
平城京の頃は、遣唐使が盛んに送られていました。
遣唐使によって仏教の高僧が来たり、中国をはじめインドなどの物資が平城京へと運ばれていました。
しかし、平城京は山の中にあったので、せっかく港に物資が届いてもそのあとは人の手で険しい山道を運ばないといけませんでした。
物流がとても弱かったのです。
また、仏教が盛んになり政治への仏教の力も増していたので寺も多く、都の中も大変手狭になっていました。
仏教の力が強くなっていった分、天皇の力が衰えていったかもしれません。
世界史対照年表を見てみると、他の国が名前を変えている中で、日本だけは紀元前660年からずっと王朝(天皇)が滅びることなく現代に続いていることになっています。
しかし、天皇の力が途中で衰えていったとしたら、こんにちの日本もなかったかもしれませんね。
まとめ
恨みや怨霊などと現代では首都を変える要因とは考えにくいものでも、昔は信じられ、とても恐れられていました。
怨念が信じられていたから、京都の街ができ、お祭りや日本特有の文化が花開きました。
今もずっと『日本』という国が存在するのも、怨念が信じられていたからと考えるとなんだか不思議ですが面白いですね。
歴史の中のわずか10年の遷都であった『長岡京』という場所ですが、京都観光のついで足を伸ばしてみるのもいかがですか?